E-Mailアドレス (代表)  doi@cyclesforum.net
                                                                   
                              2010/4まで、営業していた自転車店です。                                     
≫index
 太田川・100km/1000mUPステアツーリングコースプラン
ツーリングの計画の下準備です。

● 広島市内のページ

広島市内から太田川を遡る。支流の吉和の中津川を
たどると、島根県との県境に達する。県境のオサカエ峠まで、約100km。
瀬戸内海の海岸・広島市内(標高0m)からスタートすると
標高差約970m、まあ。えじゃん!標高差1000mにまけとく!!

   広島/打越、横川・祇園のページ
 ● 祇園のページへ
●可部のページ 
 ●完全一貫開発
 ●鉄山師・石工
 ●筏師・渡し場
太田川 自転車遡江記 
太田川の河口の江波から吉和の中津谷奥までの自転車での遡江記です。8/1から、コヒチロウの独り言に書いたもののPDFです。
太田川遡江記-1.pdf
太田川遡江記-2.pdf
太田川遡江記-3.pdf
太田川遡江記-4.pdf
太田川遡江記-5.pdf
太田川遡江記-6.pdf
太田川遡江記-7.pdf
太田川遡江記ルートPDF ootagawa.

太田川の源流は吉和の冠山と寂地山の鞍部にあります

このツーリングのコースはロードレーサーで走る設定にしました。なんせ!ラクに距離いけますよね。別に自転車ならなんでもいいのですが。
ヤルキの問題ですけどね。冠山の源流へ走るには、MTBとそして担ぎが必要です。で、あきらめて、県境の峠へ。ここも源流なんだけど。

100km/1000mUPは、「自転車ヤッテル!!」って方にはすごい難度・距離ではないでしょうね。往復して200kmですが勾配は同じ1000mUPです。
自転車のマジカルなところですよね。
でも往復200km一日となれば、懸命に走る!ってことになるでしょう。でも、つらいですね。
路面しか見てないですよね。どこかで一泊ってプランはどうでしょうか?
そうなれば、ゆっくり景色感じれますよね。
そんなことも考えながら、太田川を自転車で丸呑みしましょう。

 コースのプロフィールマップです。
 広島から離れることになって、旧友と飲みの機会があり、その席で、どうだ?太田川を走ってレポートくれないか?といってきました。
なぜ、広島を離れる自分にそんなこと言ってきたのかわかりません。彼は「環・太田川」という機関紙の手伝いをやっていて、
きっとネタきれだったのでしょう。それとも、元気になって走れ!ってことでもあったのでしょうか。そのことが、すっごく気になっています。
広島で生活してないので、気軽に走ることも、出来ないのですが、でも、すこしずつ資料を集めています。
このページはいつか走る太田川の準備のページです。集めている資料は太田川の永い歴史のなかの、歴史資料に残った出来事です。
自転車で走ることで発見できる歴史の痕跡を追ってみようとおもっています。このページをみつけられたサイクリストは、紹介するエピソードを胸に、
走ってもらえたら、いいのですが。
コースは河口の広島からスタートします。古代の太田川ってどんな川だったのだろうか?安芸国・太田川って地名は、?
 エピソード/市内うろうろ
@ なぜ?太田川って名なの

A 蝦夷の国、安芸の佐伯
B地名と道路に残った川の痕跡
C舟入は江波港の船溜、で舟入

 D横川の正体
 @ なぜ、太田川と呼ぶの?
 地名って、だれがつけたのでしょうか?どうして、そう呼ぶのでしょうかね?

「中世の太田川下流は当時の佐東郡の名から佐東川と呼ばれ、川上の加計・筒賀・戸河内一帯が太田郷と呼ばれ、太田川とよばれた」が、
普通の解説です。太田郷は11世紀に厳島の荘園として記録されてるそうです。川の名って川下の呼び名が全体の名になるのが、
普通じゃないですかね?古代の資料から、そのころの太田川の景色を想像してみましょう。

 14世紀の太田川下流の地図です。別府は、朝廷に関係なく
開拓する土地です。不安定な土地ってことでしょうか。
1371年室町時代に足利将軍の関係者の今川了俊という武将で
歌人が広島を通過して、紀行を残しています。海田に逗留して、
干潟を廿日市へぬけたと記載しているそうです。
太田川のデルタ地帯が牛田の不動院のところから
川下の瀬戸内へ向かって広がったころといえます。
ここらは干潟、沼であったと思えます。この河口にむけて、
今の山手川や安川も流れ込んでいます。

市内では太田川が本川と呼ばれます。
いまは放水路が本川なんだそうで、本川は旧太田川だそうです。
その東に元安川です。安川は太田川の西にある川ですから、
相生橋で交差してしまったのでしょうか?
「元、安」と「旧、本川」ですね。
これが交差して、相生橋ですかね。

そんな沼にいくつもの川が流れ込む状態で
安川だの山手川だの佐東川だのと、判別できたの
でしょうか?おかしいよ。!!。

これらまとめて太田川って、どうでしょうか?ね?
 
A蝦夷・エミシの国、安芸の佐伯
蝦夷・エミシは東北・陸奥の国の住人。大和朝廷にに「まつろわぬ」と呼ばれた人々のこと。

その蝦夷たちが、広島の地にいたという記録があるそうです。「アラト命という人が応神天皇のとき、播磨の国、神崎郡瓦村へ
やってきた時、青菜が川上から流れてきた。天皇がこの川上に人がいるようだとおっしゃって、アラト命はしらべにいった。
そこで出逢った人にきくと、《わたしどもは、ヤマトタケル命が蝦夷を平らげられたとき、ここにつれてこられたエミシ。》といった。
天皇はこの蝦夷を針間、安芸、阿波、讃岐、伊予の国々にばらばらに移送させた。」このアラト命が、こののちに
針間国の長官、佐伯氏となった。

同じような記事がある。「英勇的な王子が征討軍をひきいて東を征し、やがてかれらを多数捕虜として畿内にもどった。
彼ら俘囚(捕われたエミシ)たちは、ひとまず伊勢神宮におかれたが、そのさまは、エミシども、昼夜喧り嘩みて・ナリトヨミテ、出入り礼・レイなし、
というさわがしさであった。このため他に移された。御諸山・ミモロヤマ(大和・三輪山)のほとりにさぶらはしむ。
ところがそこでも彼等は「隣里・サトに叫びて人民をおびやかし」したために、ついに畿内の国々に分住せしめられた。
ほかにも別けて住まわせられたという国は播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五カ国で、それらのひとびとが《佐伯部の祖なり》という。」
司馬遼太郎・空海の風景より。空海・弘法大師の出身が讃岐の佐伯氏であることから、小説「空海の風景」の冒頭で、
その説明がされているのを紹介しました。

この「サエキ」は蝦夷たちが一騎当千といわれたツワモノでもあって、彼等は防人などにつかわれたという。ゆえに、遮る・さえぎる人々で
「佐伯」だというが、司馬遼太郎は「人が、異語をつかう場合、騒ぐ・サエグように聞こえる。佐伯とは、さへぎのことだという解き方に
自然な感じをおぼえる。と書いてます。実感がわいてくる解説ですね。さすが!


安芸の国に佐伯郡があることは、この蝦夷のことによる、ってことなんですね。
同じように、これ以外にも蝦夷を移住・移動させた記録がある。「猪名県・イナノアガタ、兵庫県尼崎市の佐伯部を、安芸の淳田・ヌタに移した。
仁徳紀38年」この安芸の淳田が三原市沼田川・ヌタガワあたりだといわれる。安芸国沼田郡沼田郷。ここに佐迫部があったのを、さらに西へ移し、
広島県佐伯郡としたのだろうといわれる。」谷川健一「白鳥伝説」


ただ、いまは安佐南区になった沼田郡は江戸時代の1664年に佐東郡を改称したもので、古代三原の沼田川から西へ移動してきたといわれる
佐伯郡とのセットではないようです。が、改称にあたって沼田を選ぶってところ、なにかありそう??佐東川って名、存在感ないですね。
でも、佐東川って名称はあったのだから、ナイナイと、こだわっても・・・ね。

それらは、太田川河口の河川氾濫原は沼であったってことの状況証拠でしょう。そんな場所を開拓するために、移送されてきた人々がいたんで
しょうか?それも東北から。さえぐ声が聞こえてきそうです。

現在の太田川の三角州・旧市内にも、氾濫原であった痕跡がのこっています。自転車で走るほか、みつからない「歴史」なんです。ご案内しましょう。

 安芸の国の長官は安芸国造・コクゾウですが、この長官は佐伯氏であったことが厳島神社の古文書にあるそうです。
佐伯氏は蝦夷だといわれていてもも、彼等はそうはいいません。廿日市市の速谷神社の神様は「飽速玉男命」で、神話の天孫降臨の際に
降臨する一団にいた「天津湯彦命」の五世だそうです。この神様を佐伯氏は自分たちの祖先だといっています。天皇直結ってことですよね。

この「飽速玉男命」の神様は、東北の宮城、福島の古代の国々の国造の神様でもあるのだそうです。そこで安芸国造・佐伯氏は、東北の国々と
つながりがあるとわかるのだそうです。それを調べた人がいるんですよね。すごい人ですね。

また安芸国造は「凡直・オウシノアタエ」とも称しています。厳島神社に平清盛が社殿を建設したころ、神社の荘園の古文書に佐伯氏が「凡直」と、
でてきます。千代田の荘園の古文書に記載されているそうです。ただ、同じ厳島神社の荘園であった「太田郷・いまの加計・戸河内」には、
この「凡直」はみつからないようです。厳島神社のしゃもじや、名産といわれる木製製品は中世この大田郷から運ばれていますから、
ここも「凡」さんの影響は大きかったでしょうね。太田川は「凡・オオ」の川って、名前の発生理由を想像してしまいますね。

1850年に起きた太田川の洪水の浸水状況。
同じ規模で1653年、 1796年と繰り返されている。
広島って大変な湿地帯ですね。
 
 
1898年
 
 B地名と道路に残った川の痕跡
 ●小いわし、七度洗えばタイの味。仁保島・比治山から城下町へ。十軒屋の話。
 
1898年ごろ
 
1925年ごろ
「 仁保島から、広島の城下町への道としては、大河浦からが最短距離にあり、十軒屋で干潮を待ち、干潟になった間に、潮間を利用して
魚介類を肩背にして歩いて、比治山の南はし六軒屋にたどり着き、城下町まで行商する」仁保島大河十軒屋誌この行商はこの間まで、
本通りのアンデルセンの前でおばさんのリヤカーで開かれていた。小イワシが名物で、きっとここから広島の名物になったのだろうな。

河口の氾濫原は比治山を囲みだし、仁保島へとのびていった。このころ浅野藩は干拓を始める。1659年に東雲・霞の仁保島東新開、
皆実・翠・旭・出汐の西新開の工事がおこなわれ1662年に仁保島と比治山は地続きになった。

1692年ごろ比治山の谷に京都・宇治から片岡道仁という茶人が浅野藩に招かれ、庵をつくったという。この庵からの眺望に民家が
あったらよい!と、正面にみえる仁保島に蒲刈島から十軒の民家をよびよせ住まわせた、という。この庵は7年後に取り壊された。
民家はそのまま残っていたという。景色造りに民家を、それも瀬戸内海の島から呼び寄せる。不思議な話だとおもう。
その民家の場所を十軒屋と呼び、そのところの小高い丘に十軒屋稲荷神社がのこっている。電信柱の区分標識にも十軒屋と記載されている。
今の地図には、この地名はない。が、古い地名は小学校や、電信柱にのこっていることがある。止まった時間が、そこにいるようだ。

「比治山は藩が所有し、樹木が茂り谷には湧く水がながれて、よい水がでて飲料水となっていた。」大河地誌水の豊かさはいまでは
予想できない。山の南の休庵谷には貝塚がある。縄文の太古、ここが島であっても、人の営みがあったことになる。山の北側に
酒造メーカーの取水場がある。いまも使われているのだろうか?

大河道から休庵谷へ入る。この道は比較的登りやすい。ここを登りきると公園にでる。その敷地の東、すこし下がったところに
北へはいる小道がある。山頂をトラバースする道で、樹間の木漏れ日がきれいなルート。下って左へ入り、三叉路を右に下ると電車道にでる。
右へ行くと現代美術館正面か、東の段原方面へ下れる。
 
 
テレビ新広島の前に車道の東に路地があります。それが大河道です。

ここに二軒中華屋さんがあって、ひとつがから揚げうまいそうです。どちらかな?大河道はR2にぶっつりと切断されてますが、
国道向こうのバイク屋さんのそばの路地がその続き。大通りへでると、斜めの路地があったりします。それが比治山の海岸線です。
道って公共のものなんですね。誰も手がつけられない。
ですが、段原再開発はすごいですね。まったく変わりましたね。
自動車のぬけ道だらけですね。自転車追い出し、くってます。

 比治山はよく走りました。だからすみずみまで知ってます。周囲24丁高17間と江戸時代に書かれています。西の交番からが正面でしょうが、
古文書では東を多く記載しています。「鶯谷。御用藪あり。このところに拝領家あり。」比治山は江戸時代は藩の所有でしたから、
こんな記述があるのでしょう。南の休庵谷は、「むかしこの谷に御医師栗原休庵 拝領の別荘あり。境内に庭石樹木などいまに残れり。」
ここは平地になった場所があって、そういえば、住居の跡だとおもえます。黄幡谷「黄幡の小祠ありしを、その後勝樂寺脇今の所に移しけるとそ、」
モスバーガーの横を登る谷で、すっごい急坂です。平地と公園が二段に登った場所にあり、そこにトラバースの遊歩道が見つかります。
この小祠が移ったさきが比治山神社だという資料もありました。神様でもいなけりゃだれも登らないでしょうね。
あの激坂は。
そういえば、ここで自転車のチェーン破損した人いましたね。物好き!


公園内にいくつかの民家があって、休憩処だったのでしょうか?古くからの営業で、公園内でもいまも権利維持されてるのでしょう。
ただ、サクラの勢いはなくなって、以前のような名所ではないようで、花見の季節の早朝も場所取りのビニールシートは少なかったです。
夜も11時で進入禁止ですし、暗いから夜ザクラってこともないのでしょうか。でもボンボリは3月中旬から用意されて、なつかしい感じいっぱいの
花見処ではあります。ただ休庵谷を上り詰めた広場のサクラはきれいで勢いあります。ここならバーベキュウおこられないでしょうね。

ボンボリもちゃんとあります。休庵谷は自動車入れませんが、モスからの激坂は自動車通行できます。焼肉セット運べます。

そんときは呼んで下さいね。特上ロースも用意してくださいね。
C舟入は江波港の船溜、で舟入 
 ●船入、私は舟入高校出身です。は関係ないか?
 広島湾にたくさんの中洲ができてきます。江戸時代浅野藩の港湾管理の役人に指示がでています。「川口浅くなり、出入りの船妨害の候
あらば、普請奉行へ申談早速掘らし候」。広島湾はますます太田川で埋め立てられてゆきます。いくらがんばって川底を掘っても、しょせん人力。
人は都合よい方法をお役人よりさきにはじめます。江戸初期から広島湾の沖合にあった江波島(江波山と皿山)が広島の外港として利用が
始まってます。江波島の北、今の舟入には江波島を利用する船の溜まりになります。舟入の土地が水面に浮かび上がってきました。
古い地図では地名は「船入」になってます。この船入が土砂で浅くなって、いよいよ干拓の対象になります。
江波の港には比較的おおきな船も入港してきます。

船入が干拓されて、江波との間に丸子橋があったそうです。舟入が干拓され陸路が江波に入ると、広島の港と江波は発展したのだそうです。
干拓は潮が引いたときに、工事をすすめるのですが、太田川が運ぶ土砂は干拓には好都合でも港は埋まってしまいます。江波も江戸期末期に
はうずもれてきたそうで、明治にはあたらしく開かれた宇品にその地位を奪われたのだそうです。本川はそれだけ、強い流れで、土砂も多く
運んだってことでしょうか。


1898年ごろ
 
1925年ごろ
 
 
 
 
上の表示の図9/1800年ごろの江波の俯瞰図
 
 江波を走るのは、冬がいいです。丸小山のお寺から川沿いにワンウエイルートのバスのお尻をマーク。江波の港へ。その間あの海の匂いに
むせかえってしまいます。牡蠣打ちの匂いです。牡蠣の荷揚げのベルトコンベアーには白鷺がびっしりならんで、おいしい新鮮な牡蠣を
まってるのです。サギたちはおこぼれいただけますが、人様は窃盗になってしまいますね。

皿山と江波山はふるくから砂州でつながっていたんですね。きれいな景色の島だったでしょうね。
江波の漁師たちは、厳島神社の管弦祭での御神体の神輿の引舟をおこなう前日、太田川をさかのぼって、まず住吉神社へ。
そして本川の相生橋をぬけて空鞘神社の前の川で回転します。ここで回るって、どんな訳なんだろうと、想像してます。が、舟入が太田川
を下ってきた荷物を、それまで下ろしていた場所が、浅瀬になるここで川を下って、瀬戸内海を航行する舟との連絡に江波までゆくことに
なったという記録を知って、江波の誇り高い厳島神社の御座舟の船頭たちの、「シマ」が空鞘神社までであったようにおもえてきました。
荷捌きと潮の満ち引きで、ここいらまでは、通行自由ってことだったような。太田川下った荷物ここまで江波から、取りにこれた約束が
あったような、それを毎年確認し認させる管弦祭ってことでは・・・。そうだったら、犬のションベンみたい・・。すみません。
江戸時代、お役人はなかなか自由活動許さなかったようですから。江波の牡蠣イカダは厳島神社沖まで広げられるってきいたことが
あるもんだから。

 陸軍射撃場
 1925年の地図には陸軍射撃場と記載されていますね。弾薬庫も皿山にあったそうです。いまの広電の江波車庫はこの射撃場だった
ところです。ここへ北東から南西に袈裟懸け・ななめに入る道は、広島城にあった陸軍練兵場から行進してくる兵隊さんの道だから、
最短距離の斜めって、きいてました。が、射撃場になる前1898年の地図にはなになのか破線で二本袈裟懸けですね。
その斜めの道は母校・舟入高校の東からスタートしてます。ここに藤棚のある家があって、茶屋であったと、聞いたような??
己斐の西国街道の茶屋と混乱してますかね。きれいな藤棚は覚えています。兵隊さんがいたころ、ここで休んだのかと、
素直におもってました。
江波の港周辺の路地は漁村の記憶ですが、江波山へのぼって、山頂から衣羽神社へ、も面白いです。
江波山の入り口の「陽気」のラーメンは4時すぎ開店で、自転車フラフラしてると、夕方すぎて、なかなかありつけないです。

 D横川の正体
毛利氏によって広島城がつくられたころの想像図です。
こんなに道はなかったでしょう。注目はお城の北側にある川です。
城北川と呼ばれたようです。
箱島(白島)の南に埋め立てて城がつくられたようで、
毛利の島普請といわれます。
この城北川は広島城の堀へ導水するルートとして利用されたようで
明治31年の地図には堀のような地形で記載されています。
ここはいまは基町高校 ・白島小学校です。
縮景園の池も同じ流れを利用して導水されたのだろうか?と
おもえるほどカーブが自然ですね。

横川はここに南北にながれる太田川や安川、山本川、三滝川そして
八木用水と入ってきます。
砂が堆積し川底がたかくなると流れが東へ抜けたようで、
この城北川もそんな流れでしょう。
二葉里にも光町へぬける流れがあって、
これは江戸時代に埋め立てされてます。
豪雨のたびに新しい川の流れができるような土地であったようです。
それは太田川の流す土砂の量もですが、
瀬戸内のおおきな潮の干満が、あるときには川をせき止めることがあって、
いまも大潮と豪雨が重なると浸水が市内でおきますね。

 
 
1898年ごろの広島城周辺です。川の渡し場が記載されてます。左に記載がある中郷は今の中広になります。
氾濫原ですね。広瀬の神社・広瀬神社のそばの土手道はいまもすこし高くなって、あります。この天満川ではいまもあさり漁の舟がみられます。

1925年大正14年ごろになると、河川の護岸がはっきりしてきます。
お城への導水は家並みになってます。
このV型の地形は東側のKKR広島の前あたりに痕跡があるように、
思ったりしますね。病気ですかね。
でも、このVラインの北側が「箱島」なんですね。

横川駅から太田川の河畔へ円く路線が記載されてますね。
川から荷揚げするのでしょうか。
ここに市内でも屈指の雁木があります。
すぐ川下の空鞘神社まで江波の舟の神事があるように、
ここから本川は川舟運送の重要な場所のよう。
「空鞘」という不思議なネーミングが気になってしかたないのです。

 
  中世のこの太田川の氾濫原にできた中州のうえの営みで、
記録されている神様は、比治山の黄幡社(比治山で紹介してます)、
箱島(白島)の碇神社、打越の八幡社ですが、
打越の八幡さんは、わかりませんです。放水路にきえたのか?
箱島の碇社は健在です。 箱は筥と書かれることある。
九州・博多の箱崎宮
{「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり
「箱」ではない。ただし同宮が在する地名・駅名などは
筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して恐れ多いという理由から
「箱崎」と表記する。元寇の際、蒙古軍を撃退したとされる神風は、
当社の神徳であると言われている。}
この境内に、蒙古軍のおいていった碇がのこっている。
だからハコとイカリが結びつくのでなくて、
八幡宮の三神の一神の「神功皇后」が
三韓征伐のときに碇をつくったという神話があって、
ここらが筥と碇が結びつくところ。
瀬戸内を代表する神社の八幡神社と、
住吉神社はともにこの「神功皇后」神話があって、
この海を縦横に動いた人々の信仰だろう。
毛利氏も神の居られる箱島をさけて、その沖に島普請までして、
城を築いたのだろうとおもってます。
武運長久ですね。
 
でも、打越の八幡さんは?どこへ??