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 太田川・100km/1000mUPステアツーリングコースプラン
 広島/打越、横川・祇園

ツーリングの計画の下準備です。

広島市内から太田川を遡る。支流の吉和の中津川を
たどると、島根県との県境に達する。県境のオサカエ峠まで、約100km。
瀬戸内海の海岸・広島市内(標高0m)からスタートすると
標高差約970m、まあ。えじゃん!標高差1000mにまけとく!!

  行方不明の神様 
  古代のある夜の豪雨が朝あがって、川の濁流が大きな島を出現させていました。流れも、昨夜までとは、ちがって、大きく蛇行しています。そんな朝が幾度もあったのでしょう。
川が新しい土地を作る。新しい土地が出現する驚きは、きっと新鮮なものでしょう。それが神業ですね。
神の降臨や、漂来です。
朝日に輝く雨上がりの空と、ゴウとながれる濁流と、水浸しの雲母がキラキラとひかるあたらしい大地。そんな景色がここにあったのです。見たかった。

今の広島湾に太田川が、いくつかの、砂州を形つくっていたころ、その土地が少しずつ自分の重みで固まって、やっと人々がその上に移住をはじめたのでしょう。
そうして、その土地を出現させた神を祀ります。

五箇荘と五つの砂州を区分しだしたころ、そのそれぞれの島に地神が現れます。一番北の別府には「打越の八幡神」が鎮座されたと記録があります。
その神を無数の中の神から判別したのは、そこに住まいした人たちです。航海の神・八幡としたのは、その人たちが海の人であったからでしょう。また「青木神社」の名も記録にあります。二つの神様がおられた様子ですね。

別府はいまの祇園・長束・新庄・楠木・打越・己斐にかけての一帯で、太田川と山手川の流れがつくった砂州です。

 
この打越の八幡が今は見当たらないのです
すこし調べると横川駅の北の三篠神社に合祀されていました。 

大正3年(1914)に楠木町の神様(あのR54のそばにそびえる楠の木の神社)と合わせて合祀され、三篠神社ができたのだそうです。そこに打越の八幡神社があるそうです。

明治31年の地図では、いま合祀されたという三篠神社とおもわれる神社が記載されています。打越には神社マークは見つからないです。合祀されたのですね。
 
ところが、大正14年ごろの地図には、二つの神社か記載されていて、打越の神社と三篠神社とおもわれます。広島市のHP・歴史ガイドでは 、合祀されたとういうことです。が。

すこし詳しいことになりますが、合祀ということを調べてみました。1871(明治4)に神社社格制度というものが発布され、官社と諸社とに神社が区分され、国の補助が1906年から始まり、1908年には一行政に一社の方針で、村ごとに一つの神社をきめることになりました。これが合祀です。このころ和歌山で南方熊楠の合祀反対の活動があったころです。

明治31年の地図になかった打越の神社がここで記載されてます。

これが不思議です。すでに三篠神社にあつめられ合祀されたはずです。

「国家神道」といわれ、皇国の礎と思われてる神社ですが、けっこう「国家神道」なんて関係ないようです。昔ながらに、神社のお祭りが続いてきた、感じをうけてます。打越のみなさんは、合祀に反対してたのでしょうか。
 

 
昭和12年(1937)に境内が拡張されます。いまの三篠小学校がこの神社の敷地であった様子です。うがった見方ですが、1934年から一行政一社のところに公費補助の制度がはじまってます。各地で合祀の政策が進められた様子がここにみられます。「壮大な社殿を造営。」とあります。各地の神社境内に忠魂碑があったりすると、ここは、けっこう国家よりだね、なんて。すごい圧力がかかったのでしょうか?

三篠神社に合祀されていた、打越の神社が昭和25年に地図に現れます。が三篠神社は消えてしまってます。

三篠神社は昭和20年の原爆で焼失。再建は遅れて昭和29年になります。ですから昭和25年の地図に記載がないってこと、なんでしょう。合祀されても、社殿があったと思われる打越八幡社は、健在ですが、このあとの太田川放水路の建設により、川底になってしましました。


とうとう消滅してしまいました。
 
横川になぜ、JR横川駅があるのか?

北から南へと流れる太田川・安川・山本川は、三匹の竜となって氾濫し、離反し、合流してここでいったん流れを止めたようです。それは東の
牛田山のいま不動院が鎮座する尾根が急流を止め、西の三滝山の流れが直角に差し込んで、南北の流れをとめ、行き場のない流れが、
ここに横川をつくったと考えます。
それぞれの土地にはそれぞれの固有の地霊(ゲニウス・ロキ)があるといいます。おおきな太田川の流れを正面からうけとめる横の流れこそ、
この古代の別府の土地の出現であり、そのエネルギーが、ここの地霊だといえないでしょうか。打越は「経由なく直接に流れる」意味といいます。
また、波を打ち消し、越してゆくこと、でもあったのでしょう。急流を舟で乗り越えることを、瀬を越すといいます。

ここに、全国へつながる鉄道の駅ができたのは、いくつもの川をせきとめ、混合するこの土地の地霊の
エネルギーが大きかったことなのでしょう。その地霊は川の交通が衰退してゆくころ、
全国で最初の乗り合いバスを出現させました。
打越から三滝をぬけて大宮へ 走るルートには、特徴がない(登りがない)のですが、JR横川駅の西の小さなガード下(これは、八木用水が
流れていた場所です)から直線に新庄橋のたもとにはいるルートは昭和25年の地図にある可部線の旧路線跡のようで、そう思うと、
それなりですね。
地下道とがガード下などの、自動車の入れないルートは、自転車でワクワクの道ですね。見つけると、ヤッター!です。
太田川放水路 
 
昭和20年、8月6日の原爆投下の1ヶ月後の
9月17日に台風が広島に豪雨をもたらした。

可部から南の太田川流域は浸水。流失家屋は615戸、死傷者43名
の被害が発生した。河口の広島市内は焼け野原だった。
昭和18年にも豪雨で浸水11543戸、流失家屋176戸の被害が可部
から南で発生しており、治水対策を求める声がおおきくなった。

太田川の治水対策は河口の市内にある師団司令部(広島城)や
軍の多数の施設の保護といった意味合いが大きく、大正13年に実地調査
がおこなわれ、昭和2年には計画が完成していた。
昭和7年に帝国議会決議をうけて、工事がおこなわれ、用地の買収も
実施された。ところが、昭和16年に呉鎮守府から太田川から呉に用水を
送水する命令があり、太田川関連工事は中断された。
その工事を戦後再開する要請が、豪雨による被害をうけて強くなった。

昭和21年放水路工事再開が決定された。
 が、放水路工事の計画・実施は軍の圧力による強制的なもので
あった。土地の強制収用に近い買収も戦後その代金の旧国債も
無価値になるについても、一切の保障も用意されていない。
全市破壊されている現状からも、計画の再検討が必要。
との反対があいついだ。昭和23年にいちど県知事の工事再開の決定
がおこなわれたが、反対の声は強く昭和26年に再開された。
戸坂の上水取入れ口に海からの海水がさかのぼるほどの
おおきな干満をもつため、放水路工事と大芝、祇園の水門も建設される。
川下かなの逆流を止める水門になる。この水門が昭和40年に完成し放水路
に通水された。


 
大正14年ごろ
 
昭和25年ごろ

 
   
   
昭和47年ごろ
 
上流
太田川放水路の河川敷は、一部舗装と未舗装ですが自転車走行
できます。西岸は西風新都線の橋のしたあたりから北上して山本川
河口まで舗装。東岸は二号線旭橋の北側から祇園大橋まで 未舗装ですが、
山手橋下あたりから舗装になってます。西岸はいいですね。
東岸は通勤通学に走ってる人が多いようです。走りにくいルートです。


川岸の上の道路は狭くて交通量も多いから、こわいですね。

埋め立てられた福島川は、広島城を改築して信州へお国替えくらった
福島正則が城を洪水からまもるために瀬替えした?のでは、なんて
想像してます。この埋め立てた川が中広通りになってますが、
観音小学校まえから、斜めに西にはいる道があります。
これも福島川の遺跡ですね。

昭和47年ごろ
 
中流域
昭和47年ごろの下流
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