西国街道(旧山陽道)/広島県 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西国街道コース詳細地図を掲載しています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西国街道・旧山陽道 芭蕉は「月日は百代の過客にして,行き交う年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ 馬の口とらえて老をむかうるものは,日々旅して旅をすみかとなす。古人も多く旅に死 せるあり」としるしている。まさにその通りであり,人生はまた長い旅なのである。 人は平和をもとめ,おちついた生活をたてたいために一定の場所に自分の住むべき場所を 見つけ,自分の生きる世界を築いてきたのであるが,そのためには,どれほど多くの苦労と努力を重ねて来たことか。 今住んでいる場所にすでに人があまるほどおれば,あたらしく生き得る場をさがして 歩かねばならないし,また一定の場所に住んでいても,そこだけでは生活を十分に たてる事ができない場合は,時に他へ稼ぎに行かなければならない。あるいはまた飢餓 や天災や戦乱のためにその土地を追われて,他へ移っていかなければならぬ人も少なくなかった。 家々の歴史についても,一つの場所に五百年千年と住みついてきたという家は何ほども 見当たらない。人々は転々として住まいを移して来ているのである。宮本常一。 道路の制度がはっきりきまったのは,大宝3年(703)で,日本を58国3島にわかち, これを畿内および東海,東山,北陸,山陰,山陽,南海,西海の七道に分類し, 幹線道路をつらねて、国々の国府をつないだ。これらの交通量によって大中小の三等に わけ,京から大宰府にいたる山陽道が大路であった。しかしその道すら万葉集にもあるごとく 「周防なる岩国山を越ゆる日は手向けよくせよ荒しその路」と歌わねばならぬような所が多かったのである。 宮本常一 その昔大路であった西国街道の江戸時代のルートを掲載しています。が,道路ですから たびたび変わっており,おおかたこんなルートだったのだ!と考えてください。 このルートは広島藩の参勤交代の絵図からトレースしたもので西の大竹,両国橋から広島までのルートは 参勤交代の絵図からは判明せず,中国新聞社から以前発行された山陽道を参考としています。 また近年広島市の南々社から西国街道を歩こうが発刊されています。(南々社広島市東区山根町27-2・TEL082-261-8243) イラストで分かりやすい案内になっています。ただ西条-田万里間はこのHPで掲載 しているルートとはちがっています。そこらも楽しいところです。 自転車では東広島市に入る大山峠は走行がむつかしいとおもいます。志和経由瀬野が 走りやすいでしょう。でも旧道フェチの私には大竹・苦の坂や大野,四十八坂とともに 古道のにおう大好きなルートです。 |
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Cの本郷から西条までの区間の写真のページを掲載しています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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