大分/国東半島・宇佐八幡をめぐる
 ピックアップ 走る自転車コースリポート--大分/国東半島・宇佐八幡--編
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※宇佐八幡宮・御神体の薦枕が6年に一度作り変えられ、その御神体が関係八社を巡行します。そのルートを掲載しました。
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□コースレポート
国東半島/六郷満山へ

縄文人たちが矢じりにつかった黒曜石はきわめて細工しにくい石なんですね。指先の器用さがそうとう必要ですね。
加工にはスペシャリストの存在が考えられます。日本とメキシコそして地中海のミロス島が黒曜石の産地です。
日本では太平洋の伊豆諸島の神津島と日本海の隠岐が主要産地でここを中心に,海をわたる交易圏ができています。
小さいのですが大分県姫島も産地でここから瀬戸内海各地へはこばれていますね。(森浩一VS網野善彦)


広く文化の伝来は,受け入れるその地が海陸の中でどんな位置関係にあるのか,またその地が,たとえば海に
向かってどんな地形を備えているのかという事に深くかかわっている。

周防灘は外海である日本海から関門海峡をぬけて瀬戸内海に向かおうとする時その玄関口のような位置にある。
しかも国東半島が半ば手首を北へ上げた形をもっているために,北九州から国東半島へかけての地形は海を
包むように円をえがいている。したがって,宇佐を流れる駅館川や寄藻川,桂川のあたりは周防灘へと入ってきた
外来の文化をむしろ自然なかたちで受け止める位置にあると見る事ができる。この地には宇佐神の信仰のまえに
それ以前から渡来の人たちの集落があったと見なければならない。


来系の人々が増え,渡来文化の影響が強まってくる中にあって,雄略天皇(5世紀半ば)の病気に際して,
九州・豊国の奇巫(アヤシキカンナギ)が呼ばれている。奇巫は呪術的宗教者と考えられ,呪医的な力量が勝れた
特異な存在ということになる。5世紀のころ豊国の巫が王朝にも聞こえた力を発揮していたとすれば,その医薬と
呪術的宗教の基本は,すくなくとも朝鮮半島を通じての外来文化の中に求めなければならないだろう。
そののち575年に用明天皇が病気に豊国法師が呼ばれている。久保田展弘)


大分県はふるくは豊の国とよばれた。「とよ」と口ずさむだけでも,野山が華やぎそうである。野は周防灘に
面し,帯状に東西にのびている。背後は深い山なみで,樹林が保水し,水を流し,野をうるおし,しかも天地異変
がすくない。まことに豊の国というほかない。(司馬遼太郎)

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徳山港から国東・竹田津にフェリーがある。港に駐車できる。受付に申し込めば案内してもらえる。自転車を袋
にいれて持ち込めば自転車代片道700円がうくよ。そうなら前日遅くに港にいって,車に泊まればいい。それに
徳山はまだ屋台が駅前と繁華街に残っている。屋台の風情もまたいい。
早朝7;20のフェリーに乗って,国東に2時間の船旅。

竹田津の港から走り始めたすぐ一番右の旧道がおすすめ。家々の軒先にある石仏がいっきに国東にはいらせて
くれる。半島中央から放射線状にながれて海までとどく尾根の麓に集落が一筋につらなって,谷奧へ走りこませる。
車道から尾根にあけられたトンネルにはいる。国東は尾根にどこもトンネルがつくられて,それもどこも暗い。
灯りが必帯。
トンネルを抜けると車道のそば下のある旧道に。車道をはしって次の尾根を越えるルートもある。が,走り始めは
アップのつもりで迂回路に海までくだってみる。尾根を回ると旧道がまた半島中央へと谷をつめる。香々地の集落。
A
正面にえらくぼこぼことした山なみが見えてくる。夷谷・国立公園。ここのぼこぼこの山にはトレキングコースも
ある。もとはこの六郷満山の修験者の修験道。磨崖仏もたくさん。国東の道に小さな石造りの鳥居があったら,
その奧にかならず磨崖仏があるとおもってよし。カンバンがないけど,鳥居がカンバン。
車道にお寺がならんでその向うに神社とそろっている。一番手前の霊仙寺にはおおきな地蔵さんとそばに小さな仁王
さん。本殿裏に十六羅漢がある。このパターンが定番。山門の仁王さんはどこもユーモラス。隣がもとは霊仙寺の
本堂だったという実相院。その隣が六所神社。神仏一体のなごりだと。
この谷を夷とあるのだが,海に関係した神様をと探してみた。神社本殿左にわだつみ神社が小さな祠であった。その
そばに石に刻まれた寄付の名簿が海軍○○と刻まれて,そのそばに貝掘りの熊でと竹篭がおいてある。そんな古い
ものではなかった。誰が,どうして?

夷谷を後ろに見ると神社の背景もギザギザの山なみ。それを見下ろすような温泉施設ができていた。食堂なし。
いよいよ登りにはいってゆく。下りに分岐。真っ直ぐ走ると無動寺そのむこうに応暦寺。石仏や羅漢や,どうして
こんなにたくさん?大岩屋の集落。
B
分岐までもどって登り下る。川沿いに新しい建物。そばの天念寺と川の中のお不動様。お不動様は川の中の小島
から拝む設定。新しい建物はこの天念寺の本尊を売ってしまって,それをこの度,市が買い戻して建物に安置し
たもので簡単な食事ができる。ここには国の重要無形文化財に指定されている修正鬼会があって,この模様も
建物の中で映像でみれるようになっている。特異な川中不動は印象がつよい。

川をくだって分岐を左のとって新城の集落をはしる。ここから八面山の山頂付近にある長安寺へはかなりの
勾配をあがる。さきほどの天念寺の正面にある集会所の左から山道が尾根を越えてここにつながっている。
すごいショトカットだけど,この路はこの半島で戦後復活した峰周りという修行の路だ。歩いて1.5km。

分岐のでる。右への登りになる。冨貴寺への案内がそこかしこにあるから,まちがうこはない。くだり終え
道なりに川筋をたどる。観光化された様子で冨貴寺がすぐにわかる。がその割にに寺に入口はちいさくて
これまで尋ねた寺と変わりない。がここの本堂は国宝。ここの集落は蕗。国東観光の目玉。
C
冨貴寺から川筋をたどって下る。桂川という。これを下り大きな平野にでると西へと山際の旧道をたどると
次に出会う川・寄藻川を渡って,やはり山際の旧道を西に。鬱蒼とした森に出会うと宇佐八幡神社。

全国に八幡宮は4万社をこえるといわれる。この八幡の神の故郷が宇佐になる。古代この地方で水田をひらいた
泰氏(3〜4世紀)が奉じた農業神で,奈良時代は活き活きとした神託をくだす神として天皇の宮廷にはいり,
そのはるかなのち,源氏が氏神にしてからは,武神になった。ヤハタは「おおぜいの泰人・ハタビトの神」
ということでのヤハタだったのではないかと思いたい。
また,古代,この神をまつるとき,たくさんのハタをたてたからだいう。ヤとは数多くの,という意味の古語
である。祭祀に多くの幡をたてるなどの習慣は古代神道にはない。主として仏教では,おおきな法要に幡を多く
つかう。司馬遼太郎。


その八幡の神さまの活躍をみてみる。

八幡神は749年,朝廷から迎神使が任命され,諸国は殺生が禁じられ,入京した八幡神のために神殿が都に
造営され,東大寺の大仏の落成法要の5千人の僧たちの読経のなか,天皇,上皇,皇太后とともに大仏を拝し
このとき「一品」の位階をさずけられている。神を迎える際に仏事をもって為され,しかも神は仏を拝して
いる。久保田展弘。


鏡のことである。この僧の野望?によって,都から遠い宇佐神宮が一躍有名になった。道鏡は弓削郡
(大阪府八尾市)のひとである。女帝に愛されたことで,やがて皇位をあやうくするまでになった。
道鏡は官僧であった。・・東大寺の図書館からしきりに呪術関係の経典を借り出した。借り出し状という
ものが正倉院にのこっている。経典のなかには「孔雀王呪経」などがあった。
孔雀はこのんで毒蛇を食い,しかもけろりとしている。・・病毒を消すには孔雀になればいい。道鏡は
この経をこのんだ。・・孝謙天皇は即位のときすでに三十をすぎて,女帝として当然ながら独身だった。
・・この女帝はほどなく患うことがあった。こういう場合法力や呪力をもつ禅師が看護禅師なる。道鏡
がそのことにあたった。彼が呪経などを誦すうちに,病は癒えた。しかし愛されてしまった。・・彼女は
道鏡を僧形のまま太政大臣にし,さらには法王という身分をあたえた。・・この間遠い宇佐八幡宮においては
策謀家たちがいた。奈良の宮廷に使者をおくり,道鏡を皇位につけるように言上した。女帝は・・すぐには
応じなかった。・・もし受ければ皇族や百官が動揺し反対するであろうことは彼女には十分推量できた。
その時期,道鏡はあきらかに天位をうかがっていた。女帝は多病でかならずしも長寿を期待できない。・・
いっそ天皇になれば,・・それには神託を得るしかない。かれの実弟を九州総監にし,宇佐神宮に影響を
与えることができるようにた。そのあげく道鏡を天皇にせよという神託だったかと思える。
女帝はふるくから使える尼僧に相談し,そこで神託をたしかめる使いをだしましょうということになった。
尼僧は弟の和気清麻呂を推した。女帝は承諾した。やがて戻ってきて,意外な神託を報告した。
王位継承の法則は古来さだまっている,というのである。無道の人はよろしく早く掃き除くべし,というので
ある。この劇的な一句でもって宇佐八幡の神名は後世にまでとどろくのだが,道鏡は激怒し和気清麻呂と尼僧を
流罪にした。770年女帝は崩じ道鏡は没落した。司馬遼太郎。


こののち二人は都にもどされているが,広島県三原市の御調八幡神社に尼僧の広虫がながされた和気清麻呂を
しのんでここ御調から流された弟をしのんだといわれる。その庵がのち御調八幡神社になったという。またここに
縄文時代かた弥生時代の遺跡が発見されている。余談です。コヒチロウ。

ルートは神社をすぎて西に旧道を走る。国道が旧道とかさなっているところがおおく。走りにくい。
山際の集落をたどって中津市に入るのもいい。元の中津競馬場をめざす。もとの競馬場のそばに御澄池が
あって,薦神社がその前にある。どうしてこんな街中の神社まで走ったのかは次を読んでください。

E
古代泰氏は,たとえば川を分流させて勢いをせぎ,一方の流れを潅漑用水につかうというふうな農業土木
の技術までもっていたようで,だから築堤して池をつくるなどはなんともなかった。
彼らは掘った池を神としてお守りしつつ,その水を低地の集落にくばった。まことに池は神様だった。
この池にコモが自生する。まこもともいう。・・水辺に自生し,古代以来,これを刈り取って編み,むしろ
などにして,暮らしの必需品だった。
・・宇佐神宮の最大の宗教行事は,神職たちが薦神社の池にやってきて,マコモを刈る事である。刈られた
薦は宗教上の手順をへて,これで枕がつくられるのである。その枕が宇佐神宮の御神体とされ,八つの神社
を巡幸するのである。行事は6年に一度だという。
(この薦枕が宇佐八幡宮から関係ある神社を巡行するお祭りがあります。そのルートを掲載しています。)
真菰生きる池といい,薦枕といい,ことごとく古代の風が吹きわたっている。音楽まで聞こえてきそう
である。司馬遼太郎。


古代の音楽がきこえたら,周防灘の風に吹かれてみよう。ただし,追い風にかぎるのだけど。神社から海
にむかって走る。海岸の集落をめぐるような旧道を東へひたすらむかう。幾本かの川を渡り,大きな橋に
かかりわたると豊後・長洲。

ここに役者村があったといわれている。
D
村から村へこそこそと質素なる芝居をみせて旅する団体がある。彼らの故郷は予想外の田舎だったりする。
一集落をなし,妻子を住まわせている様子は越中などの薬売りのようだ。筑前博多には昔よりこの集落が
ある。豊前長洲港にあるものは近年の組織だという者があるが,これもまた偶然の発現ではない。柳田国男


氏の一族は当時の先進的な産業の担い手として全国で活躍していたが,・・その一部が,のちに遊芸にも
進出したのであろう。・・寺社の祭事に奉仕する田楽法師や猿楽法師が,南北朝の混乱期から室町時代に
座をつくり,その中から観阿弥,世阿弥親子による猿楽能となっていった。・・世阿弥の実名は元清であり,
泰氏末裔を称した。
世阿弥の能の舞台の翁は「百億の月日,山河大地,森羅万象の化身であって,天上天下すべてのもに祝福を
もたらす神霊の化身である」とされ陰陽道とふかくかかわっていた。沖浦和光。


長洲にその痕跡をさがすことは難しかった。ただ先ほどの薦神社のすぐ北にある北原には人形芝居があり,
高田市には高田散所歌舞伎がのこされている。

豊前国の古社・薦神社の散所神人だった北原の場合は,算所(散所)陰陽師であったが,近世に入ると
人形芝居と歌舞伎へ進出した。江戸期の村の風情は,氏神の原田神社の境内にある舞台,淡島様などの
末社のたたずまい,そして神社に奉納される「万年願」に往時の姿を僅かにとどめている。沖浦和光。
F
高田市の市街地から海岸線にそって車道を走る。ここまで走ってくると,もうフェリーの時間との競争しか
なくなって,つらいね。

※コースは約120km。前半の山岳コースが後半にこたえる。国東の修験道とその成り立ちが,どこかにある
と感じてもらえたら,とレポートしました。
 
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